流派の周辺 その1その2その3
「高木楊心流柔術」 

 


 高木楊心流(たかぎようしんりゅう)柔術は、正称を本體(ほんたい)高木楊心流、または本體楊心流高木流、或いは本體楊心高木流などとも称し、伝によって一 定しない(単に“高木流”ともいう)。流祖についても、高木折右衛門(おりえもん)とする説と、その子・馬之輔 1(うまのすけ)との両説があり、それぞれの系統 によって代数が異なる所以(ゆえん)である。

 その後、馬之輔重貞(しげさだ)の子・源之進(げんのしん)英重−大国鬼平(きへい 2)重信と次第して、播州・赤穂藩に伝統を残したが、この大国鬼平の代から、九鬼神流の棒・薙刀・鎗などの得物 3(えもの)の伝が組みこまれ、以来、二つの流派を併せ伝えるようになったという。 

 以上は、高木楊心流、乃至(ないし)、高木流と九鬼武術(上記の、高木流に併伝した九鬼神流ではなく)との両流を学んだ高松澄水師範による伝承であるが、九 鬼家の記録には、慶長7年(1602)2月2日の日付で、高木折右衛門重光の名と花押を記した『起證文前書(きしょうもんまえがき)之事 4』という江戸期の 文献(写し)が残っており、また、別の資料(断片)には、元和3年(1617)3月7日附で、九鬼神流の「武門(ぶもん)之一巻」を伝授されたとあり、大国鬼平の代からではなく、高木流草創期からの関係を物語っている。 

 

高木織右ヱ門(折右衛門)武義の図

高木馬之助(馬之輔)信常の図

-武芸帖社刊『武者修行巡録伝』より-


 
 この『起證文前書之事』には、高木折右衛門以外にも、寛文12年(1672)10月3日附で、大国鬼平義定(前記・鬼平重信の4代後裔)の署名があり、後代に到るまで交流があったことを窺わせる。 

 この他、25代宗家・大隅守隆備(たかとも)が教えを受けた大口出雲守 5の前名を“大国鬼源太忠義”と称したという記録 6があり、江戸末期にまで、 その影響は及んでいたようである。

 

  しかし、近代に於いて、この両流が、もっとも強い接点を持つようになった端緒は、戦前から戦後の一時期にかけて、岩見南学師範とともに九鬼宗家を支えつづけた高松澄水師範の師・石谷松太郎師範が、この両流を学んでいたことによる。
 石谷師範は、播州・明石の産。高木楊心流の石谷武甥(たけま)正次(まさつぐ)の子であるが、早くから家を出て、伊庭(いば)登代太郎に就き、九鬼家の武術を学んだ。無論、父からも高木流の伝を得ており、この伝脈は、やはり、高松澄水師範を経て、東京の佐藤金兵衛師範 7に伝わり、現在、埼玉県北葛飾郡松伏(まつぶし)町田島の種村匠刀(しょうとう)師範に「高木流石谷伝」として受け継がれている。 

 

 


故佐藤金兵衛師範


種村匠刀師近影

−種村匠刀師範提供−

 


佐藤金兵衛師範より種村匠刀師範への皆伝の巻物


高松壽嗣師範より佐藤金兵衛師範への皆伝書

−種村匠刀師範提供−

 

 

 また、種村師範は、この石谷伝以外にも、諸伝の高木流を学び、とりわけ、八木幾五郎直伝といわれる「石崎伝 8」の柔術と棒術を吸収するなど、さらに完成度をたかめており、まさに古伝を透徹(とうてつ)して余すところがない。

 

 なお、現在、高木流には、上記以外にも、やはり、澄水師範が、石谷師範より以前に学んでいた水田芳太郎師範 9の伝(水田伝)の他、赤穂・神戸などの地に伝承を残している。




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[ 註 ]
1  または“右馬之輔”とも書く。
2  一説に“おにへい”と読むとも。
3  高木流との接点を物語る逸事として、高松澄水師範が残した話によると、長門守守隆の長男・吉隆(良隆)が病弱により、次男・貞隆に流派を継がせん としたが夭逝(ようせい)したため、大国鬼平が(三男・隆季と守隆は仲が悪かったので)その伝を得た。この後、修験者となって諸国を遍歴した鬼平は、播州・赤穂に於いて高木馬之輔の子・源之進と技を競い、柔(體術)に於いては源之進がすぐれ、棒は鬼平が勝(まさ)ったので、以後、柔術は高木流、棒・鎗・ 薙刀は九鬼神流として受け継がれることになった−という(東京コビイ社刊『増補大改訂版・武芸流派大事典』綿谷雪・山田忠史共著)。なお、この系統 の九鬼神流では、流名に“鬼(おに)”の字をもちいる。
4  入門時に、宗家、または師匠に対して差しだす誓紙(せいし)。“前書”とは、本人の記名の前に記す誓約文のことである。
5  公卿・中山家の側用人で、忠光卿が天誅組を組織した際、武市半平太・平井収二郎ら、勤皇の志士との間を周旋した人物として記録に残っている。
6  高松澄水誌『中臣秘抄(なかとみ・ひしょう)』巻之三十六「九鬼柔體術活法遍之巻」
7   佐藤金兵衛師範は、昭和27年(1952)、高松師範より高木楊心流柔術・九鬼神流棒術の免許皆伝を得た。
8  『増補大改訂・武芸流派大事典(東京コピイ出版部)』などに「石橋某」「石橋高木流」などとあるのは誤り。正しくは、八木幾五郎の門人・井上熊太郎清長の弟子・石崎(いしざき)安太郎義光の流れで、一説に、石崎家では道場を持たず、一子相伝したとあるのも間違い。大正2年(1913)におこなわれた石崎安太郎61歳の記念行事に記帳された門人帳が実在し、その没後、門人たちによって建立され、門人名が列記されている墓石の存在も確認されている(種村匠刀師範談)。
9  水田芳太郎師範は、もと石崎安太郎門下で、石崎家の『門人録』にも「免許後、水田派を立てた」と明記されている(仝前)。