| [ 註 ] |
| 1 |
または“右馬之輔”とも書く。 |
| 2 |
一説に“おにへい”と読むとも。 |
| 3 |
高木流との接点を物語る逸事として、高松澄水師範が残した話によると、長門守守隆の長男・吉隆(良隆)が病弱により、次男・貞隆に流派を継がせん
としたが夭逝(ようせい)したため、大国鬼平が(三男・隆季と守隆は仲が悪かったので)その伝を得た。この後、修験者となって諸国を遍歴した鬼平は、播州・赤穂に於いて高木馬之輔の子・源之進と技を競い、柔(體術)に於いては源之進がすぐれ、棒は鬼平が勝(まさ)ったので、以後、柔術は高木流、棒・鎗・
薙刀は九鬼神流として受け継がれることになった−という(東京コビイ社刊『増補大改訂版・武芸流派大事典』綿谷雪・山田忠史共著)。なお、この系統
の九鬼神流では、流名に“鬼(おに)”の字をもちいる。 |
| 4 |
入門時に、宗家、または師匠に対して差しだす誓紙(せいし)。“前書”とは、本人の記名の前に記す誓約文のことである。 |
| 5 |
公卿・中山家の側用人で、忠光卿が天誅組を組織した際、武市半平太・平井収二郎ら、勤皇の志士との間を周旋した人物として記録に残っている。 |
| 6 |
高松澄水誌『中臣秘抄(なかとみ・ひしょう)』巻之三十六「九鬼柔體術活法遍之巻」 |
| 7 |
佐藤金兵衛師範は、昭和27年(1952)、高松師範より高木楊心流柔術・九鬼神流棒術の免許皆伝を得た。 |
| 8 |
『増補大改訂・武芸流派大事典(東京コピイ出版部)』などに「石橋某」「石橋高木流」などとあるのは誤り。正しくは、八木幾五郎の門人・井上熊太郎清長の弟子・石崎(いしざき)安太郎義光の流れで、一説に、石崎家では道場を持たず、一子相伝したとあるのも間違い。大正2年(1913)におこなわれた石崎安太郎61歳の記念行事に記帳された門人帳が実在し、その没後、門人たちによって建立され、門人名が列記されている墓石の存在も確認されている(種村匠刀師範談)。 |
| 9 |
水田芳太郎師範は、もと石崎安太郎門下で、石崎家の『門人録』にも「免許後、水田派を立てた」と明記されている(仝前)。 |