日本丸の偉容

 

日本丸模型(伊勢市大湊町・市川造船 市川明氏所蔵)

 
征韓の役をはじめとする多くの海戦で活躍した熊野水軍の主艦「日本丸」は、嘉隆自らの設計にかかり、全長151尺5寸、全幅29尺の鉄甲船。千五百石積で、乗員は将士・水主(かこ)を合わせて計80人。当時においては破格の大鑑である。帆はあるが順風の時のみに使用し、操船の便をはかって百梃櫓を主動力とする。櫓枕は固定して波浪にもはずれぬよう工夫され、敵兵の侵入を防ぐための所謂「唐人返し」を装備している。甲板は兵の動きに便利であるよう広く設計され、動揺止めの装置がある。甲板の上には三層の楼を設け、麻縄で編んだ網を三重にめぐらし、周囲に九鬼家の定紋・左三つ巴を染め抜いた幔幕を張る。楼の上には蓬莱山を飾り、柱には天照大神の神札を奉安して敵を欺く仕掛けとした。船底には九鬼家の守護神でもある鬼門大金神を奉祀している。特製の大砲三門が備えられており、両舷の壁には円形と三角形の窓があり、ここから長銃を出して射撃するようになっている。甲板上後部にある一段高い位置の座敷が指揮官室で、ここにも同様の仕組みがなされており、その上の高楼は三面が厳重に囲まれいる。士官室は指揮官室の後方に二室あり、下甲板艙が水主、その下の間が倉庫・炊事場・浴室となっている。船首には飛騨甚五郎作とされる龍頭の大舳があったが、合戦時には取り外して用いない。
 征韓の役の後は、鳥羽に回航され、船倉につながれていたが、後の寛永10年(1633)から延宝8年(1680)にかけて鳥羽藩に入封した内藤氏の代になると、五百石積・六十梃櫓に改造されて大龍丸と改称された。しかし、しだいに腐朽したため、安政3年(1856)には解体され、現在は船体の一部が伊勢大湊・市川昭氏によって保存されている。往時の偉観は「文禄癸巳六月 於釜山海征韓水軍総督九鬼大隅守船柵之図」のほかに、「志州鳥羽船寸法」(賀多神社所蔵)や「九鬼公釜山海船柵之図」(東京大学教養部所蔵)などによって偲ぶことができる。